我々の生活は、テレビをはじめ、新聞、ラジオ、インターネット、雑誌、週刊誌、人の噂話などのもと、多くの情報に囲まれています。
一方的に発信されてくる情報も多く、テレビをつければ一日中なんらかの情報が発信されています。
夜中でもテレビは放送していますし、コンビニに出掛ければ、週刊誌も朝を待たずに手に入ります。
また、職場での情報、家庭での情報、友人らからの情報と、メディア以外からも様々な情報が入ってきます。
全ての情報を受け止めることはできない。疲れ果ててしまう
情報その情報量は、どのくらいの規模なのでしょうか。写真一枚が1MBとすれば、目から入って来る情報だけでも、写真を越えて、動画の情報量以上のものがあります。そのうえ匂いや、食感なども加わってきます。
生活しているだけで、膨大な情報を処理しているのです。
これだけたくさんの情報があると、やりきれないのではないか?パソコンであれば、フリーズしてしまうのでは?と思いますが、そのような結果にはなっていません。
そこには、人間が情報を処理する際のメカニズムが一つ関与しています。
人は膨大な情報を無視したり、自然と適当に扱うようにしている
人はたくさんの情報に囲まれると、意識上そのすべてに均等な注意を払うわけではありません。
つまり、無視している事や、気にならないこと、ひとまとめにしている事、すぐに忘れてしまうこと、などの能力を多く活用しているのです。
混雑時の駅で、正確な人数を把握して構内を歩く必要はなく、いつもより混んでいるとか、空いている、くらいの処理をして、相当にあっさりしたやり方を自然と導入しています。
人間に置き換えて考えても納得がいく。つまり大雑把も重要な意味を持っていた
忘れてしまったり、大雑把なことは時にネガティブなこととして見られますが、こうしたことにも、十分存在意義があったのです。
このような話を人間に置き換えても、納得いきます。
世のなかには、大雑把な人もいれば、細かい人もいます。その中間もいます。
もし大雑把な人ばかりだったら、世の中はどうなっていくでしょうか。
年賀状を小まめに1枚1枚書く文化などはすぐに廃れてしまう事でしょう。
しかし、世のなかに大雑把な人がいてくれるから、年賀状の1枚程度で争いごとにならずに済んでいるのです。
逆に、細かい人ばかりだったら、これも大変です。
缶ジュース1本買うには、一番安い場所で購入しなければならないでしょう。
コンビニは倒産することになります。
しかしよく考えれば、100円で買えるものを、120円で買わなければならないのはおかしい話です。もし、我々が、その辺の事を大雑把に考え続けたら、コンビニはもっと値段を上げてくるでしょう。
つまり、細かくチェックできる人がいるからこそ、世の物価が適正な価格に収められているのです。
少し極端な話になってしまいましたが、それぞれその存在自体が社会にとって有意義な貢献をしているのです。
そして奇妙な均衡を作っているように見えます。
まとめ
大雑把な人は細かい状況に疲れ、細かい人は長期化したり量がたくさんだったらどうしても疲れを感じるものです。
この疲労感は現代社会と切っても入り離せないものと割り切るほかないのかもしれません。
そのような発想から、「緩和」という対処はあってもよいのではないでしょうか。
当オフィスでも、疲労感に焦点化した企画をしました。日々の疲れのケアに役立てていただけたらと思っています。
この企画は柏のカウンセリング専門機関、心理臨床オフィスまつだによるものです。